今回は,法科大学院小論文入試での各論における主要項目である「法哲学」および「自由と平等」というテーマに取組みましょう。
1 法は,人が彫ったものか,それとも,お迎えしたものか
法哲学を学ぶとき,必ず通過する議論に,「自然法論」と「法実証主義」の争いがあります。法科大学院の入試でも,何度も取り上げられてきました。これは,いったいどのような論争なのでしょう。
自然科学においては,法則(law)というものは,自然の中に予め存在しており,これを人が発見(発掘)したのだと考えられています。たとえばニュートン物理学の体系は,ニュートンが組み立てたものではありますが,それはニュートンによる人工物ではなく,予め自然界が持っていた法則をニュートンが「発見した」ものと考えられます。ニュートンが発見する前から,人類が誕生する前から,宇宙は力学の法則に則りながら,運行を重ねて来たのです。
仏師は,仏像を「彫る」のではなくて,木の中にいらっしゃる仏さんを,木くずを払って「お迎えする」のだと言います。同じように,物理学の法則は,予め自然界に備わっていたものを,ニュートンが「お迎え」したのでしょう。
では,法(law)は,どうなのでしょう。明らかに人が書いたものなのだから,法は人に「彫られた」ものだ,という考えがあるでしょう。他方,天地創造主によって予め準備されていた法を,立法者が「お迎えした」のだと考えることもできるかもしれません。法は人が「彫った」のだと考えるのが「法実証主義(Legal Positivism)」であり,法は人が「お迎えした」のだと考えるのが「自然法論(Natural Law)」であると説明できるでしょう。
説明方法を変えれば,法は「人が置いた」ものか「天から授かった」ものか,という争いでもあります。どちらが正解か,ということは分かりません。この対立は,人が法をどのような存在であると考えるかという根源的な価値観の対立であり,決着がつくことは永久にないでしょう。
この対立軸が鮮明になるのは,いわゆる「悪法問題」というものです。法実証主義者によれば,人間が定めた法だけが法であるから,「悪法も法である」ということになります。自然法論者によれば,悪法は「在るべき法」と一致しないから「悪法は法ではない」ということになります。
2 自己決定論は自由論の入門編
現代の自由主義陣営に生きる私たちにとって,「自分のことは自分で決める」というのは根源的な価値を持っています。しかし,何でもかんでも「自分のことは自分で決める」ことを最優先して許すと,社会には諸々の不都合が生じてくることは明らかですから,何らかの線引きをして「自分のことを自分で決めてはいけない領域がある」と考える必要があります。ここに,自由を制限する領域の設定と,その理論的根拠の考察が必要になるのです。
最も単純なモデルは,ミルの自由論に見ることができます。危害防止原理(The Harm Principle)と呼ばれるそれは,「判断能力のある大人なら,自分の生命,身体,財産に関して,他人に危害を及ぼさない限り,たとえその決定が当人にとって不利益なことでも,自己決定の権限を持つ」(加藤尚武)と定式化して紹介されています。
このモデルは単純明快で魅力的に映るので,小論文の答案に使いたくなるかもしれませんが,現実の複雑な問題を考えるための道具とするには限界があります。実際に起こる事象は,このようなシンプルな原理によって一刀両断に解決出来るものではありません。当人に不利益なことでも自己決定できるとする主張から,しばしば愚行権とも呼ばれますが,だからといって自殺や決闘やドラッグをすべて愚行権として認めているわけではありません。また,妊娠中絶は胎児という他人に危害を与えていないのだろうか,代理母契約は危害を受ける側が同意しているから自己決定の範囲に含めてよいのではないか,などなど古典的な問題から新しい問題まで,幅広い事象に適用しようとすると,危害防止原理はシンプルに過ぎることが分かります。
複雑化した社会では,関与するプレイヤーたちに自由を認めることを基本としつつも,自由と自由が衝突するケースについて,利害調整を行わなければなりません。また,一口に「自由」と言っても,精神的自由,経済的自由,国家との関係における自由など,さまざまな切り口があるので,これを数少ない原理から演繹的に導き出すことはできません。
そこで,「自由」についての考察の第一歩を,自分のことを自分で決めるという自己決定権はどこまで認められるのかという問いに置いて,思索の旅を始めます。だから,法科大学院の入試でも,初期の頃には自己決定論にまつわる出題が多く,花盛りでした。現在の出題傾向は一定の落ち着きを見せて来ており,自由論の出題も新しいフェーズ(位相・段階)に進んでいます。この講義(マトリックス解析編)では,自己決定論にまつわる基本問題からスタートし,続く講義(マトリックス的中編)では,より進んだ現代の自由論にまつわる各論を取り上げていくことになります。
3 平等を実現するためのパラメータ選択の争い
社会を設計するにあたり,人々の間に平等の理念が実現する方が,望ましいということには異論はないでしょう。ところが現実には,人には様々な「差異」があります。人種・国籍・世代・性別・家柄・能力など,もっている属性が全く異なる人々を何が何でも同一に取り扱えというのも,妥当性を欠いてしまいます。そこで,人には差異があることを前提としながら,「等しき者は等しく」取り扱うという原理が生まれます。
この原理にしたがえば,等しくない者は等しく扱う必要がない,ということにもなります。これを「区別(differentiation)」と言います。合理的な根拠があれば,人の取扱いを区別するのは,社会的にも許されます。逆に,合理的な根拠がないのに,人を不当に異なる取扱いをすることを「差別(distinction)」と言います。これは許されません。「区別」はよくて,「差別」はダメなのです。
日本国憲法における「法の下の平等(14条)」は,国家に対し,人を差別的に取り扱うことを禁じています。差別を禁じる名宛人は,国家権力だけではなく,企業等にもこの原則が及ぶべきだと考えられるので,労働法制等により規制がなされ,行政庁が監督しています。
具体的な問題で言えば,近年議論が沸騰している格差社会問題や非正規労働者問題などは,これを法律問題としてみる場合には「区別か差別か」すなわち「取扱いを変える合理的な根拠があるか」を議論することになります。しかし,法律問題というのは当該問題の一局面を切り出したに過ぎません。
現実の社会問題には,さまざまな切り口があります。たとえば民間企業で「平等な給与体系」とは何かという問題を考えてみても,ある人は年功序列型の給与体系を平等だと考えるでしょうし,別の人は能力給制度こそ平等だと考えるでしょう。前者は年功の等しい者を等しく扱う制度であり,後者は能力の等しい者を等しく扱う制度だからです。社会一般では,年功序列型の給与体系が平等なものだと考えている節が見られますが,実は反対意見もまた平等を志向しているのです。
このように考えてみると,結局のところ,平等論における対立軸は,いかなるパラメータ(変数)において平等を実現するかという「パラメータの選択」の争いであることが分かります。このような意味で,機会の平等・条件の平等・結果の平等といったテクニカルタームを理解すると,小論文答案の中で使用するにしても,理解の深みを見せる,彫りの深い論述をすることができるでしょう。
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